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幕八 祈りの代価

last update publish date: 2025-12-30 13:40:53

 沈黙街の灯りは、今夜もまたひとつずつ消えていく。

 それは風の仕業ではない。

 黒いロングコートが通りを抜けるたび、店の扉が静かに閉まり、路地から息づかいが消えていく。

 誰も声をかけない。

 誰も視線を交わさない。

 ただ、足音だけが石畳に均等な間隔で落ちていく。

 コツ、コツ――。

 それが、この街で唯一残された“音”だった。

 アラーナには、いくつかの規律があった。

 依頼人と顔を合わせない。

 声を交わさない。

 名を問わない。

 そして、誰かの感情に踏み込まない。

 そのどれかが崩れれば、自分の輪郭が揺らぐ気がした。

 理由はない。

 けれど、守らなければならないとだけ、強く感じていた。

 その夜、廃材の積まれた路地の端に、ひとりの少年が立っていた。

 やせた肩。薄い上着。

 顔や腕には、紫色の痣がいくつも浮かんでいる。

 少年は両手を握りしめ、何かに耐えるように立っていた。

 アラーナは一瞬、足を止めた。

 影が、灯のない壁に伸びる。

 視線が交わった。

 その少年からは、敵意も、憎しみも感じられなかった。

 むしろ、祈りに似たものが漂っていた。

 声のない願い。

 沈
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  • その刃は、声なきままに首を断つ   幕十九 記録を塗りつぶす者たち

     黒煙は消え、路地裏の空気が戻ってきた。 雨はやんでいた。けれど、地面はまだ濡れていて、踏みしめるたびに薄く水音を立てた。 沈黙だけが、雨の名残として残っていた。 追跡兵の形も血も、何も残らなかった。 ただそこにあったのは、“処理されたという事実”だけだった。 アラーナは、しばらくその場に立ち尽くしていた。 やがて、背中に貼りついた冷気が動き、足が前に出る。 左手には、古い金属の鍵。 名も知らない男が、数日前に残していったもの。 鍵は、廃聖堂裏の一室を開いた。 蝋燭の火は、すでに灯されていた。 男は机の前に座っていた。前と同じ姿、同じ場所、同じ表情。 アラーナが一歩足を踏み入れると、彼は視線を上げ、静かに言った。 「……“死神”が戻ったという噂は、もう軍だけじゃない。王国の上層部――いや、国王の耳にも入っているだろうな」 アラーナは返さない。沈黙のまま、壁際に立つ。 「記録ってのはな、誰かが“生きてる”って信じてる限り、燃やしても残る。良くも悪くもな」 彼は机の上の一枚の紙を滑らせる。 アラーナが受け取り、目を落とす。 そこに書かれていたのは、区画番号と座標、そして十日後の日付。 名前も、依頼人も、理由もない。ただ、それだけ。 「……だが、塗りつぶすことは、できるかもしれない。形を変え、存在を消して、別の姿で歩かせることができるなら――な」 アラーナは紙を伏せたまま、男の顔を見た。 だが彼は何も言わない。微笑むこともなく、ただそのまま、語り始めた。 「……第四実行班。あれは、存在を“記録される前に”消すための班だった」 彼の声は、低く静かだった。 「再教育された貴族。禁術保持者。密命に背いた軍人。王国にとって“不都合な存在”を、表に出さず、記録ごと抹消する――それが、俺たちの任務だった」 「俺たち暗号兵は、ただ、命令だけに従った。意志持つこともなく、番号で生かされて、番号で処理されるために存在していた」 机の上の蝋燭が、わずかに揺れた。 「……でもな。気づいてた。処理対象が、何もしてない子どもだった時もある。“記録に残る前に消せ”って……あれは、ただの予防だった」 男は、無意識に「俺たち」と言っていることに気づくと、少しバツが悪そうに頭を搔いた。 アラーナは、その言葉を聞きながら、ひとつの記憶を思い出し

  • その刃は、声なきままに首を断つ   幕十八 黒の夜、裏切りは始まる

     夜の雨は、音を吸い取るように降っていた。 濡れた石畳に、足音は沈んでいく。 空に、月はない。 音が消え、世界が息を止めた。 アラーナは、歩きながら思い出していた。――影衛(シャド・ガルド)第四実行班。 その中でも最も冷静で、最も速く、そして確実に“処理”を遂行する暗号兵。 コードネーム、ゼロフォー。 命令に感情を挟まず、声も音もなく対象を狩る。 指令室の者すら、その背に不用意に近づくことはなかった。 処理兵のあいだで広まったひとつの噂。「目を合わせた者が消える」「呼びかけただけで次の処理対象になる」 記録されぬ囁きが、ひとつの異名を作った。――“死神”。 与えられたのではない。 ただ、そう呼ばれるようになっただけ。 ゼロフォーの、もう一つの呼び名。 雨が視界を滲ませるなか、遠くで誰かが噂している声が聞こえた。「なあ、また出たんだって……首が、なかったって」「だから言ったろ、あれは“死神”なんだよ。名も、顔もないって」 ふと、足を止める。 アラーナは小さく、息を吸った。 そのまま、誰に向けるでもなく、低くつぶやいた。「……し・に・がみ、か」 雨の音が、すぐにその言葉をさらっていった。 だが、アラーナの胸の奥には、確かに残っていた。  自分が“名を持たないまま呼ばれていた《モノ》”として――。 背中に視線を感じたのは、それから数歩後だった。 雨音に紛れた気配。 振り返らずとも、わかる。 こちらに向けられた、敵意のない“探索”。 追跡兵。 アラーナは歩を止めず、周囲の通りと建物の配置を把握する。 ルメア旧街区の西側。ギルドの管理が及ばない“観測外エリア”。 つまり、軍が動きやすい場所だった。 視線はひとつではない。 前方、屋上、通路の端。 複数の足音。呼吸の抑制。誰かが無線を使ったような“沈黙の重み”。 完全に囲まれている。 だが、アラーナの表情は変わらない。 腰の《ルジェ・ノワール》には触れることもなく、路地に駆け込んだ。 廃工場の裏路地へと足を踏み入れたとき、空気が切り替わった。 一斉に気配が動いた。 囲みが縮まる。 武器の気配はない。 だが、数人が同時に、無言で跳び出してくる。 名乗りもなく、口もきかない。 まるで過去の自分のように、“番号”しか持たぬ者たち。 

  • その刃は、声なきままに首を断つ   幕十七 コードで呼ぶ者、記憶で見る者

     蝋燭の小さな炎が、冷えた空気をゆっくり撫でていく。 その温度が、記憶と現実の境を曖昧にしていた。 男は椅子にもたれかかり、組んだ指をゆっくりほどくと、静かに机の上を叩いた。「……第四実行班の名簿、いまじゃ軍の中でも一部の上層部しか見られない」 アラーナは反応を返さない。 呼吸を抑えるようにして、言葉を封じた。 口を開けば、過去に飲み込まれてしまう気がした。「十人いた暗号兵のうち、八人は任務中に消えたとされてる。 処理兵は全員、内部記録抹消。指揮官だった女――セリア・グランネヴィル。 最後に目撃されたのは、首だけが指令室に残された時だった」 蝋燭の炎が、机の上に置かれた一枚の紙を照らす。 そこには手書きの図と、番号の羅列。ゼロフォーの名もある。 「まさか、本当に……お前がやったのか。全部、あの時に」 沈黙。 アラーナは動かない。 だが、その指先が、ごくわずかに動いた。 紙に触れるわけでもなく、ただ手のひらが、無意識に何かを拒絶するように。 男は表情を変えず、続けた。 「命令に背いた、ってことか。あるいは――命令を果たしすぎた、のかもしれないけどな」 椅子のきしむ音。 蝋燭が小さく波打つ。 「でも、ひとつだけ言える。お前は“誰か”を斬らなかった」 その言葉に、アラーナの視線が一瞬だけ動いた。 体温が、ほんのわずかに上がるのを感じる。 忘れたはずの鼓動が、コートの下で鳴った。 「記録に残ってるんだよ。ゼロセブン――リュカ・アーヴェント。“ゼロフォーの任務中に失踪”ってな」 その名に、反応はなかった。 けれど、空気が確かに、少しだけ締まった。 「……それがゼロフォーの“意志”だったのなら」 男はゆっくりと立ち上がった。 机の上に、小さな鍵をひとつ置く。 「俺は、お前に興味がある」 そのまま、背を向けて歩き出す。 扉の前で立ち止まり、最後に一言だけ、背中越しに告げた。 「好きにしていい。この街で居続けるのか、逃げるのか、それとも……この街で、俺を斬るのか。だが、覚えておけ。……ゼロフォーという文字列は、まだ“消されていない”。あの記録庫の底に、きっちり貼られている」 扉が軋んで開き、足音が外へと消えていく。 部屋には、炎の音と、鍵の金属が木に触れる微かな感触だけが残された。 アラーナはまだ、何も言わない

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     男の背を追って歩く。 アラーナは足音を抑え、視線を絶えず周囲に巡らせていた。 廃聖堂。 かつて宗教施設だったという石造りの建物は、今ではほとんど忘れられた存在だった。 扉は錆びていたが、開く音は意外なほど静かで、内部は思ったより整っていた。 灯りはない。 男が蝋燭を一本取り出し、火をつける。 オレンジ色の光が、埃にまみれた机と椅子を照らし出す。 四方を石壁に囲まれた空間。窓は布で覆われ、外からの気配は届かない。 密室というには、あまりに静かすぎた。 男は机の向こう側に腰を下ろし、椅子をひとつ、軽く手で示した。 アラーナは応じない。 壁際に立ったまま、男を見ていた。 その視線は警戒を解かず、同時に、蝋燭の炎を見てもいなかった。 男は無理に話しかけようとはしなかった。 しばらくの間、室内にはただ蝋の燃える音だけがあった。 “ゼロフォー”。 その言葉が、まだ頭の奥に引っかかっている。──番号だけで呼ばれていた日々。 訓練施設の白い天井。 鉄の音、整列、感情の削除命令。 自分の意思で動いた記憶が、ひとつもない。 眠る時間も、食事の量も、表情の変化すら――すべてが監視されていた。 喜怒哀楽は“廃棄対象”とされ、笑った者は次の朝には部屋から消えていた。『ゼロフォー、次の処理対象』『ゼロフォー、表情変化、規定外』 命令の声が降ってくるたびに、頭の中の何かが凍りついていった。 “判断”という機能が、最初から自分に与えられていなかったのだと、思い知らされる。 あれは意思ではなかった。反射だった。 投げられた言葉に、身体が勝手に反応する。 名を与えられることはなかった。 番号で呼ばれ、番号で消される者だった。 生き残る条件は、ただ命令に従うことだけ。 アラーナの目が、今いる部屋と記憶の中の“あの部屋”を重ねていた。 石壁の冷たさ。灯りの位置。誰もいない静けさ。 違うのは、自分が立っている“意志”の強さだけ。 男がようやく口を開いた。「……影衛(シャド・ガルド)の残党が、動き出してる」 彼の声は低く、抑揚はほとんどなかった。 机の上に、何枚かの紙を広げる。 手描きの地図、記号が刻まれた軍用文書の断片、黒く塗り潰された日付。「影衛の組織自体は、とっくに死んでる。  だが、お前の記録は軍に残ってるし……新

  • その刃は、声なきままに首を断つ   幕十五 再会は、ゼロフォーの名と共に

     ルメア下層区の奥。 崩れかけた石壁に挟まれた、看板もない酒場――《エイディスの耳》。 灯りは弱く、空気は淀んでいた。 名も知らない者たちが、声も交わさず集う場所。 アラーナは、壁際の席にいた。 黒のロングコートは椅子の背に。 グラスには触れず、視線は一点を見据えたまま動かない。 まるで、そこに自分自身すら存在しないかのように。 扉が軋み、足音が近づいてくる。 男が正面の椅子を引き、静かに腰を下ろした。 旅装。乱れた髪。 軽い身振りの中に、目だけが観察の色を帯びている。 「……沈黙街の酒場ってのは、気配まで薄くなるもんだな」 アラーナは、顔を上げない。 「まあ、酒より静けさに浸る場所だって話か……違ったか?」 返答はない。 「椅子、硬くなったな。……前より、だいぶ」 それでも、何も返ってこない。 男は肩をすくめ、グラスを指でなぞりながら、ぽつりと落とした。 「……相変わらず、不愛想だな。……ゼロフォー」 空気が、変わった。 アラーナの視線が、初めてわずかに動いた。 次の瞬間、左手が腰の内側に滑る。 黒衣の下、《ルジェ・ノワール》の柄へと指が触れた。 椅子が軋む。 身体の軸が静かに傾き、踏み込みの構えへと移行する。 処理動作直前の、戦闘姿勢。 店内の音が遠のく。 誰もが気づきながら、誰も見ようとはしない。 男は、両手をゆっくりと上げた。 笑みは保ったまま、声だけが少し低くなる。 「……まあ、そう来るのは覚悟で呼んだんだが……。予想通り、さすがというか、やっぱり怖ぇな」 アラーナはそれでも返事はしなかった。 けれど、指が柄から離れる。 構えは解かず、緊張だけが残った。 男は静かに立ち上がり、テーブルにルメア銀貨を一枚だけ置いた。 「ここじゃ話せない。……静かな場所がある」 「情報と酒、どっちが目的かは、行ってから決めてもらって構わない」 アラーナはグラスを一度だけ見やり、ゆっくりと椅子を引いて立ち上がる。 コートの裾がなびき、長い髪が肩先で揺れた。 足元の動きは静かで滑らか。 周囲の空気がわずかに震えた。 男が店を出る。 アラーナがその背を追う。 誰も、ふたりに声を掛けなかった。 ふたり自身もまた――その必要すら感じていなかった。 呼ばれたのは、名ではない。 番号――それは、

  • その刃は、声なきままに首を断つ   幕十四 残された声の在処

     少女の首を落とした夜。  その翌日も――  アラーナの日々は、何も変わらなかった。 依頼が届く。銀貨が揃っている。  首を狩る。  それだけで十分だった。   壁に背を向け、銃口を握ったまま震えていた元衛兵。 ――命令を聞けなかった、臆した執行人。 血に濡れた楽譜を抱き締め、歌詞のない旋律を口ずさんでいた吟遊詩人。 ――声を失った、忘れられた奏者。 首に縄を巻いたまま、“処刑前に逃げてきた”と笑っていた商人。 ――自らを売り込んだ、値札付きの裏切者。 少女の名を叫びながら刃を振るおうとした、父と名乗る男。 ――言い訳で塗り固めた、歪んだ保護者。 背後の壁に自分の罪を書きつけながら、目を伏せた書記官。 ――記録のなかに自分を葬った、沈黙の書き手。 痙攣しながらこちらを見つめていた、肌のただれた少年。 ――呪いと呼ばれ続けた、病の遺児。 身を伏せている片方の子にしがみついていた、選ばれなかった双子。 ――泣き声を殺していた、消された片割れ。 刃が振るわれる前、自らの舌を噛み切った女。 ――最期の言葉さえ拒んだ、死に急ぐ証言者。 首を差し出すように顔を伏せていた、鎖につながれた記録官。 ――すべてを知っていた、囚われの記録者。 祈るように目を閉じていた、声を奪われた少女。 ――──────。   名は知らない。  知る必要もない。  アラーナが扱うのは、名ではなく、首だけだ。 夜、アラーナはひとり屋上に出た。  誰にも呼ばれたことのない空の下、雲の切れ間にある星を、静かに見つめる。 手は、腰のベルトに添えられている。  そこにあるのは、数えきれない首を狩り続けてきた黒い鎌――《ルジェ・ノワール》。 アラーナはそれを引き抜き、黒く輝く刃を月へとかざした。 まぶしいほどの輝き。  そして、その重みは常にそこにある。  沈黙と、首と、祈りの気配が、刃の奥に染み込んでいた。 アラーナは、最近、思うことがある。 処理された者たち。  その依頼には、いつも銀貨と契約が揃っていた。  だが、ときどき――“言葉の名残”のようなものを感じることがある。 声にはならない。  記録にも残らない。  それでも確かに、“誰かの願い”が封じられていたような気がする瞬間が――  ほんの、わずかに。 アラー

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