LOGIN黒煙は消え、路地裏の空気が戻ってきた。 雨はやんでいた。けれど、地面はまだ濡れていて、踏みしめるたびに薄く水音を立てた。 沈黙だけが、雨の名残として残っていた。 追跡兵の形も血も、何も残らなかった。 ただそこにあったのは、“処理されたという事実”だけだった。 アラーナは、しばらくその場に立ち尽くしていた。 やがて、背中に貼りついた冷気が動き、足が前に出る。 左手には、古い金属の鍵。 名も知らない男が、数日前に残していったもの。 鍵は、廃聖堂裏の一室を開いた。 蝋燭の火は、すでに灯されていた。 男は机の前に座っていた。前と同じ姿、同じ場所、同じ表情。 アラーナが一歩足を踏み入れると、彼は視線を上げ、静かに言った。 「……“死神”が戻ったという噂は、もう軍だけじゃない。王国の上層部――いや、国王の耳にも入っているだろうな」 アラーナは返さない。沈黙のまま、壁際に立つ。 「記録ってのはな、誰かが“生きてる”って信じてる限り、燃やしても残る。良くも悪くもな」 彼は机の上の一枚の紙を滑らせる。 アラーナが受け取り、目を落とす。 そこに書かれていたのは、区画番号と座標、そして十日後の日付。 名前も、依頼人も、理由もない。ただ、それだけ。 「……だが、塗りつぶすことは、できるかもしれない。形を変え、存在を消して、別の姿で歩かせることができるなら――な」 アラーナは紙を伏せたまま、男の顔を見た。 だが彼は何も言わない。微笑むこともなく、ただそのまま、語り始めた。 「……第四実行班。あれは、存在を“記録される前に”消すための班だった」 彼の声は、低く静かだった。 「再教育された貴族。禁術保持者。密命に背いた軍人。王国にとって“不都合な存在”を、表に出さず、記録ごと抹消する――それが、俺たちの任務だった」 「俺たち暗号兵は、ただ、命令だけに従った。意志持つこともなく、番号で生かされて、番号で処理されるために存在していた」 机の上の蝋燭が、わずかに揺れた。 「……でもな。気づいてた。処理対象が、何もしてない子どもだった時もある。“記録に残る前に消せ”って……あれは、ただの予防だった」 男は、無意識に「俺たち」と言っていることに気づくと、少しバツが悪そうに頭を搔いた。 アラーナは、その言葉を聞きながら、ひとつの記憶を思い出し
夜の雨は、音を吸い取るように降っていた。 濡れた石畳に、足音は沈んでいく。 空に、月はない。 音が消え、世界が息を止めた。 アラーナは、歩きながら思い出していた。――影衛(シャド・ガルド)第四実行班。 その中でも最も冷静で、最も速く、そして確実に“処理”を遂行する暗号兵。 コードネーム、ゼロフォー。 命令に感情を挟まず、声も音もなく対象を狩る。 指令室の者すら、その背に不用意に近づくことはなかった。 処理兵のあいだで広まったひとつの噂。「目を合わせた者が消える」「呼びかけただけで次の処理対象になる」 記録されぬ囁きが、ひとつの異名を作った。――“死神”。 与えられたのではない。 ただ、そう呼ばれるようになっただけ。 ゼロフォーの、もう一つの呼び名。 雨が視界を滲ませるなか、遠くで誰かが噂している声が聞こえた。「なあ、また出たんだって……首が、なかったって」「だから言ったろ、あれは“死神”なんだよ。名も、顔もないって」 ふと、足を止める。 アラーナは小さく、息を吸った。 そのまま、誰に向けるでもなく、低くつぶやいた。「……し・に・がみ、か」 雨の音が、すぐにその言葉をさらっていった。 だが、アラーナの胸の奥には、確かに残っていた。 自分が“名を持たないまま呼ばれていた《モノ》”として――。 背中に視線を感じたのは、それから数歩後だった。 雨音に紛れた気配。 振り返らずとも、わかる。 こちらに向けられた、敵意のない“探索”。 追跡兵。 アラーナは歩を止めず、周囲の通りと建物の配置を把握する。 ルメア旧街区の西側。ギルドの管理が及ばない“観測外エリア”。 つまり、軍が動きやすい場所だった。 視線はひとつではない。 前方、屋上、通路の端。 複数の足音。呼吸の抑制。誰かが無線を使ったような“沈黙の重み”。 完全に囲まれている。 だが、アラーナの表情は変わらない。 腰の《ルジェ・ノワール》には触れることもなく、路地に駆け込んだ。 廃工場の裏路地へと足を踏み入れたとき、空気が切り替わった。 一斉に気配が動いた。 囲みが縮まる。 武器の気配はない。 だが、数人が同時に、無言で跳び出してくる。 名乗りもなく、口もきかない。 まるで過去の自分のように、“番号”しか持たぬ者たち。
蝋燭の小さな炎が、冷えた空気をゆっくり撫でていく。 その温度が、記憶と現実の境を曖昧にしていた。 男は椅子にもたれかかり、組んだ指をゆっくりほどくと、静かに机の上を叩いた。「……第四実行班の名簿、いまじゃ軍の中でも一部の上層部しか見られない」 アラーナは反応を返さない。 呼吸を抑えるようにして、言葉を封じた。 口を開けば、過去に飲み込まれてしまう気がした。「十人いた暗号兵のうち、八人は任務中に消えたとされてる。 処理兵は全員、内部記録抹消。指揮官だった女――セリア・グランネヴィル。 最後に目撃されたのは、首だけが指令室に残された時だった」 蝋燭の炎が、机の上に置かれた一枚の紙を照らす。 そこには手書きの図と、番号の羅列。ゼロフォーの名もある。 「まさか、本当に……お前がやったのか。全部、あの時に」 沈黙。 アラーナは動かない。 だが、その指先が、ごくわずかに動いた。 紙に触れるわけでもなく、ただ手のひらが、無意識に何かを拒絶するように。 男は表情を変えず、続けた。 「命令に背いた、ってことか。あるいは――命令を果たしすぎた、のかもしれないけどな」 椅子のきしむ音。 蝋燭が小さく波打つ。 「でも、ひとつだけ言える。お前は“誰か”を斬らなかった」 その言葉に、アラーナの視線が一瞬だけ動いた。 体温が、ほんのわずかに上がるのを感じる。 忘れたはずの鼓動が、コートの下で鳴った。 「記録に残ってるんだよ。ゼロセブン――リュカ・アーヴェント。“ゼロフォーの任務中に失踪”ってな」 その名に、反応はなかった。 けれど、空気が確かに、少しだけ締まった。 「……それがゼロフォーの“意志”だったのなら」 男はゆっくりと立ち上がった。 机の上に、小さな鍵をひとつ置く。 「俺は、お前に興味がある」 そのまま、背を向けて歩き出す。 扉の前で立ち止まり、最後に一言だけ、背中越しに告げた。 「好きにしていい。この街で居続けるのか、逃げるのか、それとも……この街で、俺を斬るのか。だが、覚えておけ。……ゼロフォーという文字列は、まだ“消されていない”。あの記録庫の底に、きっちり貼られている」 扉が軋んで開き、足音が外へと消えていく。 部屋には、炎の音と、鍵の金属が木に触れる微かな感触だけが残された。 アラーナはまだ、何も言わない
男の背を追って歩く。 アラーナは足音を抑え、視線を絶えず周囲に巡らせていた。 廃聖堂。 かつて宗教施設だったという石造りの建物は、今ではほとんど忘れられた存在だった。 扉は錆びていたが、開く音は意外なほど静かで、内部は思ったより整っていた。 灯りはない。 男が蝋燭を一本取り出し、火をつける。 オレンジ色の光が、埃にまみれた机と椅子を照らし出す。 四方を石壁に囲まれた空間。窓は布で覆われ、外からの気配は届かない。 密室というには、あまりに静かすぎた。 男は机の向こう側に腰を下ろし、椅子をひとつ、軽く手で示した。 アラーナは応じない。 壁際に立ったまま、男を見ていた。 その視線は警戒を解かず、同時に、蝋燭の炎を見てもいなかった。 男は無理に話しかけようとはしなかった。 しばらくの間、室内にはただ蝋の燃える音だけがあった。 “ゼロフォー”。 その言葉が、まだ頭の奥に引っかかっている。──番号だけで呼ばれていた日々。 訓練施設の白い天井。 鉄の音、整列、感情の削除命令。 自分の意思で動いた記憶が、ひとつもない。 眠る時間も、食事の量も、表情の変化すら――すべてが監視されていた。 喜怒哀楽は“廃棄対象”とされ、笑った者は次の朝には部屋から消えていた。『ゼロフォー、次の処理対象』『ゼロフォー、表情変化、規定外』 命令の声が降ってくるたびに、頭の中の何かが凍りついていった。 “判断”という機能が、最初から自分に与えられていなかったのだと、思い知らされる。 あれは意思ではなかった。反射だった。 投げられた言葉に、身体が勝手に反応する。 名を与えられることはなかった。 番号で呼ばれ、番号で消される者だった。 生き残る条件は、ただ命令に従うことだけ。 アラーナの目が、今いる部屋と記憶の中の“あの部屋”を重ねていた。 石壁の冷たさ。灯りの位置。誰もいない静けさ。 違うのは、自分が立っている“意志”の強さだけ。 男がようやく口を開いた。「……影衛(シャド・ガルド)の残党が、動き出してる」 彼の声は低く、抑揚はほとんどなかった。 机の上に、何枚かの紙を広げる。 手描きの地図、記号が刻まれた軍用文書の断片、黒く塗り潰された日付。「影衛の組織自体は、とっくに死んでる。 だが、お前の記録は軍に残ってるし……新
ルメア下層区の奥。 崩れかけた石壁に挟まれた、看板もない酒場――《エイディスの耳》。 灯りは弱く、空気は淀んでいた。 名も知らない者たちが、声も交わさず集う場所。 アラーナは、壁際の席にいた。 黒のロングコートは椅子の背に。 グラスには触れず、視線は一点を見据えたまま動かない。 まるで、そこに自分自身すら存在しないかのように。 扉が軋み、足音が近づいてくる。 男が正面の椅子を引き、静かに腰を下ろした。 旅装。乱れた髪。 軽い身振りの中に、目だけが観察の色を帯びている。 「……沈黙街の酒場ってのは、気配まで薄くなるもんだな」 アラーナは、顔を上げない。 「まあ、酒より静けさに浸る場所だって話か……違ったか?」 返答はない。 「椅子、硬くなったな。……前より、だいぶ」 それでも、何も返ってこない。 男は肩をすくめ、グラスを指でなぞりながら、ぽつりと落とした。 「……相変わらず、不愛想だな。……ゼロフォー」 空気が、変わった。 アラーナの視線が、初めてわずかに動いた。 次の瞬間、左手が腰の内側に滑る。 黒衣の下、《ルジェ・ノワール》の柄へと指が触れた。 椅子が軋む。 身体の軸が静かに傾き、踏み込みの構えへと移行する。 処理動作直前の、戦闘姿勢。 店内の音が遠のく。 誰もが気づきながら、誰も見ようとはしない。 男は、両手をゆっくりと上げた。 笑みは保ったまま、声だけが少し低くなる。 「……まあ、そう来るのは覚悟で呼んだんだが……。予想通り、さすがというか、やっぱり怖ぇな」 アラーナはそれでも返事はしなかった。 けれど、指が柄から離れる。 構えは解かず、緊張だけが残った。 男は静かに立ち上がり、テーブルにルメア銀貨を一枚だけ置いた。 「ここじゃ話せない。……静かな場所がある」 「情報と酒、どっちが目的かは、行ってから決めてもらって構わない」 アラーナはグラスを一度だけ見やり、ゆっくりと椅子を引いて立ち上がる。 コートの裾がなびき、長い髪が肩先で揺れた。 足元の動きは静かで滑らか。 周囲の空気がわずかに震えた。 男が店を出る。 アラーナがその背を追う。 誰も、ふたりに声を掛けなかった。 ふたり自身もまた――その必要すら感じていなかった。 呼ばれたのは、名ではない。 番号――それは、
少女の首を落とした夜。 その翌日も―― アラーナの日々は、何も変わらなかった。 依頼が届く。銀貨が揃っている。 首を狩る。 それだけで十分だった。 壁に背を向け、銃口を握ったまま震えていた元衛兵。 ――命令を聞けなかった、臆した執行人。 血に濡れた楽譜を抱き締め、歌詞のない旋律を口ずさんでいた吟遊詩人。 ――声を失った、忘れられた奏者。 首に縄を巻いたまま、“処刑前に逃げてきた”と笑っていた商人。 ――自らを売り込んだ、値札付きの裏切者。 少女の名を叫びながら刃を振るおうとした、父と名乗る男。 ――言い訳で塗り固めた、歪んだ保護者。 背後の壁に自分の罪を書きつけながら、目を伏せた書記官。 ――記録のなかに自分を葬った、沈黙の書き手。 痙攣しながらこちらを見つめていた、肌のただれた少年。 ――呪いと呼ばれ続けた、病の遺児。 身を伏せている片方の子にしがみついていた、選ばれなかった双子。 ――泣き声を殺していた、消された片割れ。 刃が振るわれる前、自らの舌を噛み切った女。 ――最期の言葉さえ拒んだ、死に急ぐ証言者。 首を差し出すように顔を伏せていた、鎖につながれた記録官。 ――すべてを知っていた、囚われの記録者。 祈るように目を閉じていた、声を奪われた少女。 ――──────。 名は知らない。 知る必要もない。 アラーナが扱うのは、名ではなく、首だけだ。 夜、アラーナはひとり屋上に出た。 誰にも呼ばれたことのない空の下、雲の切れ間にある星を、静かに見つめる。 手は、腰のベルトに添えられている。 そこにあるのは、数えきれない首を狩り続けてきた黒い鎌――《ルジェ・ノワール》。 アラーナはそれを引き抜き、黒く輝く刃を月へとかざした。 まぶしいほどの輝き。 そして、その重みは常にそこにある。 沈黙と、首と、祈りの気配が、刃の奥に染み込んでいた。 アラーナは、最近、思うことがある。 処理された者たち。 その依頼には、いつも銀貨と契約が揃っていた。 だが、ときどき――“言葉の名残”のようなものを感じることがある。 声にはならない。 記録にも残らない。 それでも確かに、“誰かの願い”が封じられていたような気がする瞬間が―― ほんの、わずかに。 アラー